2024年4月24日水曜日

もし万が一、維新が政権をとったら、どんな日本になるか想像してみよう ⇒ 維新・足立議員に賠償命令 ← 「暴言議員」 / 「大阪では高校生全員が授業料無償化」と選挙運動で「ウソ」を / 維新・音喜多氏 「ミャクミャク像」損壊への投稿「万博反対派と決めつけていない」と“弁明” / 大阪・吉村洋文知事らの発言に非難殺到、「犯人を万博反対派と決めつけ…」「誤った印象操作」ミャクミャク像損壊事件で(中日スポーツ) / ミャクミャク像事件「真犯人」の正体がわかって窮地「吉村知事」東京15区補選も敗色濃厚で / 維新・馬場代表「立憲をたたきつぶす必要ある」 自民党とは将来「お互い切磋琢磨」(FNN)  

2024年4月23日火曜日

【パレスチナと連帯するアメリカの大学生たち】 NY大の学生や教職員逮捕 コロンビア大の親パレスチナデモ、全米の大学に飛び火(CNN) / コロンビア大学。パレスチナ支援運動が続き、全学がリモートに。教授陣もウォークアウト / コロンビア大学は、学生が1週間、芝生の上でテントに泊まるのを許可すると発表した。 / 名門MITの有志たちも立ち上がる。MITの学生・職員らで野営地『ジェノサイドに反対する科学者の陣」を設置 / NYU(ニューヨーク大学)。大学側がガザ支援活動を行う学生の大量逮捕を通告。学生を守るために教授/教員が立ち上がった。 ⇒ NYUではプロテストする学生を囲っていた教員たち全員が逮捕された様子 / 米エール大で60人逮捕 イスラエル軍への抗議活動、米大学で過激化(朝日)←「過激化」? / カリフォルニア大学バークレー校にも「ガザ連帯キャンプ」が設営されました            

 



 

大杉栄とその時代年表(109) 1894(明治27)年6月12日~20日 全州和議成り日清共同撤兵交渉開始(ほぼ妥結) 全羅道50郡余に「執綱所」(農民的自治機関)設置 大本営は追加派兵決定 閣議、大本営決定を追認(甲午農民戦争への干渉、朝鮮内政への干与強行を決定) 「如何なる口実を用うるもわが兵を京城に留め置くこと最も必要なり」と大鳥宛電報 子規『当世媛鏡』 明治東京大地震  

 

大鳥圭介

大杉栄とその時代年表(108) 1894(明治27)年6月6日~11日 軍隊の進退、軍機軍略に関する記事を厳禁する陸海軍省令 論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(自由新聞) 東西「朝日」は、対清国強硬意見 清国派遣隊、牙山湾上陸 日本軍第1次派兵、宇品出港  一葉に久佐賀から手紙(歌道成道まで面倒をみるので「妾になれ」と提案) 全州和議成立 大鳥公使は軍隊派遣見合わせを打電 より続く

1894(明治27)年

6月12日

朝鮮、混成旅団先頭部隊,仁川に到着

6月12日

朝鮮、共同撤兵交渉開始。農民反乱が和議により終結し、小康を得たため。

15日には、袁世凱・大鳥間でほぼ妥結

6月12日

朝鮮、農民軍、全羅道50郡余に「執綱所」(農民的自治機関)設置。総本部を全州大都所とする。全琫準・金開南が全羅右道(本拠金溝)・左道(本拠南原)を夫々管轄。執綱所を通じて貪官汚吏処罰、身分制廃止、税制改革、土地制度改革など幣制改革に着手。

6月12日

大鳥公使の共同撤兵交渉に関して、日本側の反応は冷ややか。

大本営は、大島旅団の上陸をさし控えるようにとの大鳥公使の要請とは逆に、更に第5師団の残部を動員して派遣すること決定(清は山海関から12時間で仁川に達するが、日本は宇品から40時間を要する。機先を制するためには、これしか道はない)。

朝鮮では共同撤兵交渉が順調に進展。

外務大臣陸奥宗光と駐韓全権公使大鳥圭介との間にズレが生じる。杉村代理大使が、日本の将来のためこれを機に韓国から外国勢力の一掃が必要と、大鳥を説得。陸奥は後に「今においてこれを追懐するも、なお悄然たるものあり」と当時の「惨憺の苦心」を述べる。

6月12日

対外自主派中央選挙本部、結成。新聞同盟からは志賀重昂が総代。

6月13日

この頃の日本のいくつかの新聞は農民軍を高く評価し、これを肯定。

「毎日新聞」6月13日社説「東学党を懯む」は「東学党は朝鮮官吏に対しては不忠なるも、朝鮮国、朝鮮人民に対しては忠義なり、生命を犠牲にして苛政を除んとする者なり」と言い、14日の「日本」社説「内乱に係る国際法」(陸羯南執筆)は、東学党は「少なくとも一の国事犯として視るぺく、盗賊蜂起といふぺからず」と言う。

しかし9月下旬以降農民軍が日本軍に対し戦闘を開始すると、これらの新聞の態度は変る。

6月14日

「自由新聞」、観兵式をするために派兵したのではない、と述べる。

6月14日

閣議、伊藤首相、日清両国軍隊により朝鮮内乱を鎮圧し、後、共同で内政改革を行うことを提案。

翌15日、陸奥外相は、伊藤提案に、清国との協議如何に係らず撤兵しない、清国との共同が実現しないときは独力でも改革を実行するという2項目を追加。閣議諒承。陸奥「わが外交は百尺竿頭一歩を進めた」。大本営の大兵力派遣方針を追認。日本軍は公使館・居留民のみでなく、甲午農民戦争への干渉、朝鮮内政への干与を強行することを決定

閣議後、大鳥公使宛に「如何なる口実を用うるもわが兵を京城に留め置くこと最も必要なり」と電報。

第2回目の挑発。15日閣議決定。「密雲不雨」の情勢を「疏通」する為、朝鮮内政を日清共同で改革し、その結果をみるまで撤兵しないこの内政改革の提唱は「政治的必要の外、何等の意味なきもの」(「録」47)で、予想される清国の拒絶を待って「陰々たる曇天を一変して一大強雨を降らす」(同48〉ことを目的とする。第2回の挑発は、「我外交の位置を一時被動者より主動者に変ぜしめ」(「録」36)るが、それは直ちにロシアの干渉を呼ぶ。

6月14日

朝鮮公使、陸奥宗光外相に日本軍の撤退を要求。

6月14日

一葉、田中みの子の歌会の発会(例会)の手伝いのため朝から出かける。来会者は22~23人。

6月15日

子規『当世媛鏡(ひめかがみ)』(『小日本』連載~7月15日)

6月16日

朝鮮、日本軍第1次派兵(一戸大隊)、仁川着。続く第2次(大島義昌少将指揮の大島混成旅団)と合せ1万余。開戦の口実なく手持ち無沙汰

6月16日

陸奥宗光外相、清国公使に東学反乱の共同討伐および朝鮮内政の共同改革を提議。汪公使は本国への伝達を拒否するが、翌日午前1時まで協議は続きようやく伝達を諒承。21日、清国拒絶。

6月16日

一葉の日記より

「十六日 早朝、禿木子来訪。天知君より文あり。「花ごもり」二度目の原稿料送りこさる。禿木君も学校のいそがしき比(ころ)とて、はやくかへる。われは小石川稽古にゆく。

此日、三宅龍子ぬしより使にて、『依緑軒漫録』かさる。坪内ぬしよりかりたる小説もろとも、今宵通読。一時に及ぶ。」(「水の上日記」)

* 「文学界』第十六号(明27・4刊)掲載の「其五」から「其七」までの原稿料。

* 磯野徳三郎著。明治26年9月18日刊。発行所日本新聞社。リットン、ディッケンズ、ユーゴーの伝記・解題を掲げ、本文を抄訳で紹介している。

* 坪内銑子。

(十六日。早朝、平田禿木氏来訪。星野天知氏から手紙が来る。「花ごもり」の二度目の原稿料を送って下さる。禿木氏も学校が忙しい頃で早く帰られる。私は萩の合の椿古指導に行く。(以下十行抹消)

この日、三宅龍子さんから使いの人が来て、「依緑軒漫録」を貸して下さる。坪内逍遥先生から借りたという小説もあり、二つを通読するのに夜一時までかかった。)

6月18日

新聞同盟事務所、加盟各社に「伊藤内閣選挙干渉の手段」と題する通信を発す。

25日には、朝鮮問題審議の臨時議会召集を求める社説・短評を掲載するよう内報。

7月7日、「自由党党報」の対外硬派批判に「駁撃」を加えるよう指示。

6月20日

李鴻章、ロシア公使に朝鮮問題で日清間の調停を要請。

6月20日

明治東京地震

この日14時4分、東京湾北部を震源として地震が発生(南関東直下地震)。地震の規模はマグニチュード 7.0、震度6。

帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)地震学教室によれば、余震が少なく、6月21日、22日には弱震が1回ずつ、微震が数回程度あっただけ。但し、10月7日に発生した東京湾の地震(M 6.7)は最大余震の可能性が指摘されている。

被害の中心は東京から横浜にかけての東京湾岸で、建物の全半壊130棟(東京府90棟、神奈川県40棟)、死者31人(東京市24人、横浜市4人、橘樹郡3人)、負傷者157人。建物の被害は洋風建築の煉瓦建造物の被害が多く、煙突の損壊が目立った事から、煙突地震の異名もある。華族会館(旧鹿鳴館)のバルコニー到壊。

6月20日

竹鶴政孝、誕生。ニッカウヰスキー

6月20日

一葉の日記より

「二十日 午後二時、俄然大震あり。我家は山かげのひくき処なればにや、さしたる震動もなく、そこなひたる処などもなかりしが、官省通勤の人々など、つとめを中止して戻り来たるもあり。新聞の号外を発したるなどによれは、さては強震成しとしる。被害の場処は、芝より糀丁(かうじまち)、丸之内、京橋、日本橋辺おも也。貴衆両院、宮内、大蔵、内務の諸省大破、死傷あり。三田小山町辺には、地の裂けたるもあり。泥水を吐出して、其さま恐ろしとぞ聞く。直に久保木より秀太郎見舞に来る。ついで芝の兄君来訪。我れも小石川の師君を訪ふ。師君は、此日、四谷の松平家にありて強震に逢たるよし。「床の間の壁落、土蔵のこしまきくずるゝなどにて、松平家は大事成し」とか。鍋島家にて新築の洋館害に達て、珍貴の物品どもあまたそこなひ給ひけるよし。師君のもとにはさしたる事もなかりき。此夜、「更に強震あるべきよし人々のいへば」とて、兄君一泊せらる。その夜十時過る頃、微震あり。

・・・」(「水の上日記」)

(二十日。午後二時、急に大地震がある。

私の家は山陰の低い所なので、それほど振動もなく損害もなかったが、役所勤めの人たちの中には、仕事をやめて帰って来た人もいた。新聞の号外によれば、成程強震だったということがわかった。被害の場所は芝から麹町、丸の内、京橋、日本橋あたりが主な所でした。貴衆両院、宮内、大蔵、内務の各省は大破し死傷者も出た。三田小山町辺には地が裂けた所もあり、泥水を噴き出し、その様子は恐ろしい程であったと聞く。すぐに久保木から秀太郎が見舞に来る。ついで芝の兄も来る。私も小石川の中島先生を見舞う。先生はこの日、四谷の松平家にいてこの強震に遭われたとのこと。床の間の壁が落ちたり土蔵の腰巻きの壁が崩れるなど、松平家では大事であったとのこと。鍋島家では新築の洋館に被害が出て、珍しい貴重な品物が沢山破壊したとのこと。先生のお宅は大したことはなかった。

「今夜再び強震があるだろうと人々が言っているから」

といって、兄は泊まっていく。夜十時過ぎ頃に微震があった。)


「この頃の事すべて書尽しがたし。朝鮮東学党の騒動、我国よりの出兵、清国との争端、これらは女子の得(え)よくしるべき事にもあらず、かつは此頃打つゞき心のせわしきに、その日の事をその日にしたゝめあへねば、やがては忘れて散うせぬるも多かり。又折をまちてかひつけてん。

北里、青山両医博士、黒死病しらべとて香港に渡りたるは、いみじき名誉なりしや。青山博士の、その病につかれてあやふげなる電音(でんおん)おぼつかなし。知らぬ人にもあらぬ仲なれば、殊に哀なり。」

(事件が多いので、この頃の事をすべて書き記すことは出来ない。朝鮮の東学党の騒乱、それに対する我国からの出兵、そして清国との争いの起こり、これらのことは女子の身ではその事情を充分知ることは出来ない。またこのところ何かと心慌しい日が続いて、その日のことをその日のうちに記録することが出来ないので、そのまま忘れてしまったものも多い。またそのうちに思い出して記録しよう。

北里柴三郎、青山胤通両医学博士がペスト菌調査のため香港に行かれたのは非常に名誉な事でした。青山博士がそのペストに感染され生命が危険であるという報道があったが、気がかりな事です。全然知らない間柄でもないので、特に悲しく思われるのです。)

青山胤通;

明治27年(1894)南清国各地にペストが流行し、その研究に派遣されるも罹病し、数日間の危篤の状態になる。明治34年(1901)日本の臨床医学を確立し、明治34年(1901)東京帝国大学医科大学長。明治36年(1903)ドイツ・オーストリア・フランス・スイス・ロシア・イギリス・アメリカを歴訪、明治37年(1904)4月に帰国。明治40年(1907)桂太郎を総裁に、渋沢栄一を副総裁に癌研究会を発足させる。明治45年(1912)明治天皇崩御に際して、その拝診を仰せつかる。

内科医師の立場からペスト・脚気などの治療に取り組み、明治・大正にわたって、日本医学界の発展と改革に努めた。しかし、「脚気」の原因について東大の威光を背に最後まで伝染病説を主張したが、やがてビタミンB1が発見され後輩である島薗順次郎にビタミン欠乏症であることを証明されるにいたり敗北するという東大権威主義の一面もあった。大正4年(1915)所轄が内務省から文部省に替わった折に北里柴三郎に代わって伝染病研究所所長となる。


つづく

裏金事件で逆風の自民「沈みかけた船」 補選に立ち向かう一体感なし(朝日) / 〇裏金問題での首相の対応を… 評価しない 78%(朝日世論調査4/22) / こんな数値を無視しながら「信頼回復の先頭に立つ」とか言う首相。先頭に立って何もしないという技。 裏金問題で派閥幹部「証人喚問すべきだ」80%  首相の処分対象除外「納得できぬ」70%  森元首相に「国会で説明求めるべきだ」84% — 武田砂鉄 / 岸田首相に元側近も失望「そういう人。本当に人ごとだと思っている」 三ツ矢憲生氏が語る裏金事件と自民党(東京);「普通の選挙はすべて表の金でやれるはず。それができないようなことをやるから、ああいう格好(還流)でやったんじゃないかと」 / 裏金事件 は「首相の処分必要」 「トップは責任を取るためにいる。潔さ、覚悟が感じられない」 / 「自分は米国に行って、国賓待遇で迎えられて、立派な首相だと思っているかもしれない。しかしこれで日本は紛争に巻き込まれる可能性が高まる」 

 

 

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2024年4月22日月曜日

大阪万博ハコモノに固執…  中野信子氏 「デジタルのものを、わざわざハコモノを作ってデジタルにしてるって言う、『ギャグ』でやってるのかな?って思う人いると思いますけどね。このキャラクターもちょっと、本当に見てる方このキャラクターいいと思います?、、、、、」   

「万博 むなしさ漂う現場 『私たちさえ税の無駄遣いと思ってしまう』工事関係者が本音」(信濃毎日新聞)   

 

大杉栄とその時代年表(108) 1894(明治27)年6月6日~11日 軍隊の進退、軍機軍略に関する記事を厳禁する陸海軍省令 論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(自由新聞) 東西「朝日」は、対清国強硬意見 清国派遣隊、牙山湾上陸 日本軍第1次派兵、宇品出港  一葉に久佐賀から手紙(歌道成道まで面倒をみるので「妾になれ」と提案) 全州和議成立 大鳥公使は軍隊派遣見合わせを打電   

 

朝鮮で活躍していた頃の若き袁世凱

大杉栄とその時代年表(107) 1894(明治27)年6月1日~5日 臨時閣議、混成1個旅団(7千人前後)の朝鮮派兵決議 第6議会抜き打ち解散 李鴻章、朝鮮第1次援兵900派遣指令 北村透谷追悼会 北村透谷追悼会 戦時大本営条例により大本営を動員(参謀本部内) より続く

1894(明治27)年

6月6日

清国公使館付武官神尾光臣少佐、清国第1次派遣隊は6日山海関出発と伝える。大本営は混成旅団動員完成後の出兵予定を、一戸兵衛少佐指揮の歩兵大隊先遣とする。

6月6日

漱石、狩野亨吉を訪ねる。

6月7日

清国駐在代理公使小村寿太郎、清国政府に公使館保護のための日本軍出兵を通告

6月7日

清国軍朝鮮出兵を知らせる行文知照、日本に届く。朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出兵する旨を通告。陸奥外相、朝鮮を清国の属邦と認めずと抗議。

6月7日

軍隊の進退、軍機軍略に関する記事の新聞雑誌掲載を厳禁する陸、海軍省令

6月7日

7日付の「東京日日」、「朝鮮へ兵員を派遣する旨、我が政府より清国政府へ昨夜通報せられたる由」との記事で発行停止

第2次伊藤博文内閣の言論抑圧は日清戦争に至って激しさを加え、「大阪朝日」によると、27年中、治安妨害を理由に発行停止された全国各新聞・雑誌社は140社。

6月7日

論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(「自由新聞」)。「わが帝国は宜しくこの時に乗じて・・・亜細亜の覇権を掌握するの機をなさんこと、是れ今日失うべからざるの好機にあらずや」と煽動。

6月7日

「大阪朝日」号外の「仁川通信員発」電報は、「昨日(五日)清国軍艦二艘、某国軍艦一艘、米国軍艦一艘来れり。軍艦尚ほ追々来るべし。清国の兵千五百上陸の通知今日ある筈なり」と事態の緊迫を伝え、東西「朝日」は、対清国強硬意見を掲げ、「国論を帰一して勇往邁進あるのみ」と主張。

6月7日

ペスト患者発生の米船ペリュー号、長崎に入港、市民を不安に陥れる。

6月8日

朝鮮、清国派遣隊、2次と合せ2,400余、忠清道牙山湾上陸。忠清道一帯布陣(京城~公州~全州を結ぶ要衝)。

6月8日

日本軍第1次派兵(一戸少佐大隊)、宇品出港

第1回目の清国徴発。済物浦条約第5条・天津条約第3条に藉口しての出兵。済物浦条約第5条主文は「日本公使館ハ兵員若干ヲ置キ護衛スル事」である。「若干」は、当初日本側提案は1大隊で、実際に駐屯した最大兵力は平時編成の歩兵2中隊で、その後1中隊に減じる。従って混成1個旅団8千は、済物浦条約第5条で正当化はできない。

11日、大鳥公使は、大島旅団長に対し、「当地ニ我兵員ヲ派出スル事ハ、本ト条約ニ照準シテ我公使館ノ警備ニ充ツルニ過ギザレバ、其名義上ヨリ考案ヲ下ダスモ多数ノ兵員ヲ要セズ」と指摘し、駐兵の沿革を述べ「故ニ公使館警備ノ為メニハ、多クトモ一大隊以上ノ兵ヲ置ク事ハ前例ニ照シテ不穏当ニ相捗り」、清韓両国は無論のこと「其他各国卜雖モ必ズ之ヲ視テ、穏当ノ処為卜倣サザルべク存候」と力説。大鳥公使は、済物浦条約第5条を理由として「大兵ヲ京城ニ繰入レ候事ハ、本使ニ於テ到底是視致兼候」と強調

陸奥外相は、天津条約第3条について、「両国が朝鮮に対する均等の権力を示したる唯一の明文にして、之を除きては朝鮮に対する権力平均に就き、日清両国の間に何等の保障だも存することなし」(「録」24)と述べ、その後の研究者もそれを踏襲し、ここに出兵の法的根拠を求める。しかし、陸奥自身は、別のところで「天津条約は、単に日清両国が軍隊を朝鮮に派出するの手続を規定するの外、他に何等の約束あることなし」(同75)と述べ、またイギリス政府が「朝鮮の事に付ては、一切日清両国の間に平衡を保つを以て天津条約の精神と認め」でいるのは、「条約の正解としてほ、全く之を誤りたるもの」(同25)と指摘するように、天津条約それ自身は出兵を合法化するものではない。

陸奥・川上は、混成旅団派兵が条約上正当な根拠がない事を自認しつつ、壬午軍乱(1882)・甲申事変(1884)で清国の軍事力に圧倒された経験に鑑み、「牙山の精兵は多く積りで五千人位なるぺし」と予定し、「我出兵を聞けば、必ず彼より来撃すべし」と判断し、その機に開戦にもちこむために混成旅団(兵8千)を派遣

しかし、全州和約がなり、公使館保護の名目が立たなくなり、牙山の清軍が自重して「瞬息の間に衝突すべきの模様もあらず」(「録」35)、大鳥公使も日清共同撤兵交渉に巻き込まれ、第1回挑発は失敗

6月8日

駐日ロシア公使ヒトロヴォ、陸奥外相に出兵理由問う。陸奥は中国の行動牽制のためと回答。ヒトロヴォ公使は、日本艦隊が朝鮮沿岸に集中しつつある、イギリス艦隊は巨文島に在泊し3ヶ付の物資を蓄積、我国東部国境に紛糾が及ぶ可能性ありと本国に急電。

6月8日

愛知馬車鉄道、設立。資本金15万円。'96年6月名古屋電気鉄道。

6月9日

李鴻章、英公使に日本の朝鮮派兵阻止を要請

6月9日

朝鮮、清国援軍、牙山に到着

6月9日

漱石、小屋(大塚)保治と共に狩野亨吉を訪ねる。

6月9日

一葉に充てて久佐賀から手紙。

「君が歌道熱心のため苦労しているのが憐れであるから、成業の暁まで自分が面倒をみよう。その代り君が一身を我に委ねてもらいたい」という。「妾になれ」ということである。一葉は、「かのしれ物、わが本性を何と見たのか」と憤慨するが、表面上は、「我を大事をなすに足りると見るならば、扶助を与え給え。しかし我を女と見て怪しき筋を考えるなら、お断りする」と返事。


「九日成(なり)けん、久佐賀より書状来る。「君が歌道熱心の為に、しか困苦せさせ給ふさまの、我一身にもくらべられていと憐(あはれ)なれば、その成業(せいげふ)の暁(あかつき)までの事は、我れに於て、いかにも為して引受ペし。され共(ども)、唯一面の識(みしり)のみにて、かゝる事を、『たのまれぬ』とも、『たのみたり』ともいふは、君にしても心ぐるしかるべきに、いでや、その一身をこゝもとにゆだね給はらずや」と、厭ふべき文の来たりぬ。「そもや、かのしれ物、わが本性をいかに見けるにかあらん。世のくだれるをなげきて、こゝに一道の光をおとさんとこゝろざす我れにして、唯目の前の苦(くるしみ)をのがるゝが為に、婦女(おんな)の身として尤(もつと)も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや。あはれ笑ふにたえたるしれものかな。さもあらはあれ、かれも一派の投機師(やまし)なり。一言一語を解きざる人にもあらじ」とて、かへしをしたゝむ。「一道を持て世にたゞんとするは、君も我れも露ことなる所なし。我れが今日までの詞(ことば)、今日までの行(おこなひ)、もし大事をなすにたると見給はゞ、扶助を与へ給へ。われを女と見て、あやしき筋になど思し給はらは、むしろ一言にことはり給はんにはしかず。いかにぞや」とて、明らかに決心をあらはして、かなたよりの返事をまつ。」


(九日の日でしたか、久佐賀から手紙が来た。

「貴女が歌道に熱心に努力しておられるためにひどく困窮しておられることが、私自身の身にも考え合わせられて、大層お気の毒に思いますので、その成果が上がるまでの日々の生活のことは、私の方で何とかしてお引き受け致しましょう。しかしただの一面識の間柄で、このような事を頼まれることも、また頼むということも、貴女ご自身としても心苦しいことと思われますので、そこで、貴女のご一身をすっかり私にお任せ下さいませんか」

との、まことに嫌らしい文面でした。

一体あの不届き者はこの私の本性をどう見ているのだろうか。世の中が次第に衰え退廃して行くのを欺いて、それを救うために一筋の光をともそうと志しているこの私が、ただ目の前の困窮の苦しみから逃れるために、女の身にとって最も尊く最も大切なこの操を、どうして破ることが出来ようか。まことに笑おうにも笑えないほどの無礼な不届き者よ。そうは言っても、彼も一箇の相場師だとすれば、こちらが言う一言一の意味が全く分からない人でもあるまいと思って、返事を書く。

「それぞれに専門の道をもって世のために尽くそうとする点では、あなたも私も少しも違いはないのです。私の今日までの言葉や今日までの行いをご覧になればお分かりのことと存じますが、もし大事をなすに足るとお思いになりましたら経済的な援助をお与え下さい。私を単なる女とだけご覧になって、変な怪しからぬ事などをお考えなさるようでしたら、むしろきっぱりお断り下さった方がよいのです。どのようにお考えでしょうか」

と、はっきり私の決心を書いて、先方からの返事を待つことにした。)

「文(ふみ)を出すの夜、返事来る。おなじ筋にまつはりて、にくき言葉どもをつらねたる。「今は又かへしせじ」とて、そのまゝになす。

かの人丸も我家を訪ひたり。かゝる人に似合しからずと見ゆるは、かへすがへす我れを浮世の異人なるよしたゝえて、「長き交際(つきあひ)を結ばまほしき」よしなどいふ。おもしろからぬ者ども也。」

(手紙を出したその晩に返事が来る。同じことをごたごたと書き、不愉快な言葉を書き並べている。もう返事など出すものかと、そのままにする。

あの人丸も私の家へ訪ねて来た。どうも世捨て人らしくもないと思ったのは、何度も繰返し繰返し私を世にも珍しい立派な人だと褒めたたえて、長く交際を願いたいなどと言うのでした。全く面白くない人ばかりいることよ。)

6月10日

朝鮮、休暇帰国中の朝鮮駐在公使大鳥圭介、海軍陸戦隊420率い仁川上陸。漢城入京。

11日、各国外交団、大鳥公使に日本軍の出兵理由を質問。農民兵は解散し京城は平穏で、軍隊上陸は外交上の難問を惹起すると判断、軍隊派遣の見合わせを本国へ打電

6月11日

朝鮮、全州和議

招討使洪啓薫と交渉。平和を回復し、日清両国に出兵口実を与えないため。幣制改革(封建的身分の廃棄、貪官汚吏処罰、封建的収奪制限、土地の平均分作など)と農民軍全州撤退、解散。「大都所」-全羅道中50の農民軍「執綱所」。<国家機構の分裂・二重化>

6月11日

豊田喜一郎、誕生。


つづく


岸田首相が「私の責任で聞き取り調査を行いました。記録はございません」と答弁すると、委員会室から「うわー」という声があがった。(朝日4/22) / 裏金問題 森元首相に「国会で説明求めるべきだ」84% 世論調査 | 毎日新聞 / 下村博文「森会長の時にそういうスキームを作って」「もし国会で『その通りでしょう』みたいなことを言ったら…大騒ぎになる」 / こどものおつかい以下! 〈電話で事情聴取なんてありえない 森氏は「ご機嫌伺いのような話だった」と言ってる〉 → 岸田総理 森元総理への聴取は「やりとり明らかにしない前提」で実施 裏金事件への関与は確認できずと改めて強調(TBS) / 「内容を明らかにしない事情聴取というのは事情聴取ではない」 / 岸田首相の森喜朗「電話聴取」の一問一答がヤバすぎ《茶番劇「ご指導をお願いしたい」の一部始終》          

 

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幹事長のおひざ元で連敗、党内に衝撃広がる 大東市長選で維新が敗北(朝日) / 小池百合子知事、都内首長選の〝連勝〟ストップ 目黒で支援候補敗北 今後の戦略に影響か(産経) / 倉敷市議補選2人決まる 投票率11.84%(参政党議員がトップ、次点は恐喝未遂で起訴されて辞職した議員の娘)

「大東亜戦争」呼称から見えるもの 戦時中から複数解釈、歴史認識の対立も 陸自連隊の投稿で注目(朝日4/22) / 〈社説〉陸自「大東亜」発言 根の深い深刻な問題だ(信濃毎4/199) / <東京新聞・社説>「大東亜戦争」投稿 自衛隊の歴史観を憂う / 「大東亜戦争」陸自連隊投稿、防衛相が釈明(朝日) / 陸自部隊の「大東亜戦争」投稿を削除 防衛省「誤解を招いた」(朝日) ← 誤解とかじゃなくて、ヤバい事実がバレた! / 陸上自衛隊の第32普通科連隊、公式Xで「大東亜戦争」と表現(朝日) / 「大東亜戦争」陸自部隊の公式アカウントがSNS投稿 反省が薄れている? 自衛隊幹部は靖国に参拝も(東京) / 陸上自衛隊の「第32普通科連隊」公式X、「大東亜戦争」と表現して批判の声「どこの極右」「大戦を美化して自己正当化か」(中日スポーツ)      

 

 

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  《8日午前 官房長官記者会見》



 

2024年4月21日日曜日

大杉栄とその時代年表(107) 1894(明治27)年6月1日~5日 臨時閣議、混成1個旅団(7千人前後)の朝鮮派兵決議 第6議会抜き打ち解散 李鴻章、朝鮮第1次援兵900派遣指令 北村透谷追悼会 北村透谷追悼会 戦時大本営条例により大本営を動員(参謀本部内)    

 

陸奥宗光

大杉栄とその時代年表(106) 1894(明治27)年5月17日~31日 朝鮮駐在代理公使杉村濬の出兵上申 袁世凱、出兵準備を李鴻章に電請 参謀本部、出兵必要と決定 東学農民軍、全州占領。朝鮮政府は袁世凱に出兵救援を依頼 宗銀、内閣弾劾上奏案可決(総辞職か解散かを迫られる) より続く

1894(明治27)年

6月上旬

一葉は久佐賀義孝を訪問し、今後の支援の口約束をとりつける。

6月1日

朝鮮、東学農民軍、全州城攻略

6月1日

朝鮮、日本公使館書記生鄭永邦、袁世凱を訪問。清国の出方を探り、「日本政府は決して他意を持つものではない」と付言。袁世凱は、この会談の模様を李鴻章に報告、日本は国内多事で、出兵するとしても公使館保護の100余の規模となる模様との判断を付け加える。

6月1日

朝鮮、鄭書記生の報告をうけて、朝鮮駐在代理公使杉村濬、東学党指導の農民暴動による全州占領と朝鮮政府の清国への援兵要請を外相陸奥宗光に報告(2日、受信)

6月1日

朝鮮、政府、金鶴鎮を全羅道監司に任命、農民軍宣撫工作させる

6月2日

朝鮮、領議政閔泳駿、清国代表袁世凱と密会。非公式清軍出動要請(3日公式要請)。袁世凱は直ちに高宗要請を北京の李鴻章に打電。漢城駐在清軍、即日出動。

一方、朝鮮政府は、清国軍到着までの時間稼ぎのため全琫準の要求全てを呑むことにする(和議)。

6月1日

論説「対韓問題如何」(「自由新聞」)。「遅疑躊躇する」べきでないと主張。政府と呼吸を合わせて世論を誘導。

6月2日

臨時閣議、冒頭陸奥外相が杉村代理公使の電報を読上げ、朝鮮での日清両国の権力均衡意見を述べ、一同賛成。清国の出兵に対抗して混成1個旅団(7千人前後)の朝鮮派兵決議。衆議院解散決議。

この夜、陸奥外相・川上操六参謀次長・林董外務次官会談し、壬午軍乱(明治15年)・甲申政変(17年)では清国に後手をとったので、今回は機先を制して前回の損失を回復しなければならず、清国以上の兵力を送りこれに臨むべき

杉村代理公使の急電。「全州ハ昨日賊軍ノ占有ニ帰シタリ。袁世凱曰ク、朝鮮政府ハ清国ノ援兵ヲ請ヒタリ」。日本は朝鮮の現状維持(=日清の権力平均)を口実に、国民と欧米諸国に出兵を納得させることができる。

日清戦争の過程の第1期。6月2日閣議での出兵決定~5日大本営設置から7月23日王城事変まで。この間、日本は「厳に事局を日清両国の間のみに限り、務めて第三国の関係を生ずるを避くべし」(「録」17)との廟算から、朝鮮問題に対し、「表裏二個の主義」(同30)、即ち、表面では「成るべく平和を破らずして、国家の栄誉を保全し、日清両国の権力平均を維持すべし」としつつ、裏面では「全力を尽して当初の目的(「日清両国の衝突」)を貫く」ことを決意(同17)。それを実現する為に、日本は軍事上は主動権を保持しつつ、外交上は「被動者たるの地位」に立ち、3度にわたり清国を挑発。

第6議会、抜き打ち的に解散。実質審議を行わず、わずか半月で終了。

最終段階の条約改正。政府は対外硬派の活動に神経を尖らせ、半年間に2度の解散を行い対外硬派封じ込めを図る。第2次伊藤内閣発足以来、陸奥外相が改正交渉を行う。彼は井上・大隈の失敗から、中途半端な改正案では国民を納得させられないことを悟り、改正を領事裁判権撤廃に絞る。秘密主義をとり、実際の交渉は青木駐英公使が行う。明治27年春からは改正のため正式委員会が開かれ、第6議会当時、交渉は最終段階を迎えている。

6月3日

グスタフ・マーラー、「<巨人>交響曲様式の音詩」、ワイマールで再演。

6月4日

李鴻章、朝鮮第1次援兵900派遣指令。

6月4日

帰国中の大鳥公使、海軍陸戦隊・警視庁巡査隊400従え帰任。伊藤首相は袁世凱と協議して可能な限り平和的に軍局をむすぶよう指示。陸奥外相は、「韓国においては優勢をとる」事を絶対的必要条件とし、「過激に思うも顧慮する処なく断然たる措置をとるよう訓令。10日漢城入り。

6月4日

この日、「東京朝日」、3日付け仁川電を号外にする。「東学党益猖獗(三日正午仁川特置通信員発) 官軍敗れ大将死す。全州(首府)は東学党に略取せられ電報通ぜず。政府狼狽し京城の人心恟々たり。又兵六百を発す」。これにより、「東朝」は5日から、「大朝」は13日から、夫々3日間の発行停止を命じられる。

6月4日

北村透谷追悼会、九段坂下の貸席玉川亭で開催。島崎藤村ら友人、石阪昌孝・北村快蔵・美那・英子も出席(42名)。

6月4日

現存する一葉「水の上日記」の初め。この日は、妹邦子と中島歌子の母のお墓に参る。

続けて、この間の久佐賀とのやり取りが記されている。


水の上-本郷丸山福山町時代-

①「塵の中」期の最後の日記と「水の上」期の最初の日記の問に1ヶ月の空白(1冊分の記録が散逸)。

②27年7月~28年4月が大きく欠落(11月9日~13日の部分は現存)。一葉が処分したと考えられる。この欠落部分には、日清戦争の興奮や久佐賀義孝・村上浪六らとの苦い交渉が記録されていたはずである。

③28年6月~10月、11月~12月、29年2月~5月も空白。これは「にごりえ」「十三夜」「たけくらペ」「わかれ道」「通俗書簡文」「われから」などの執筆に忙殺されて記録を怠ったと考えられる。

④傍系日記としては、「つゆしづく」の後半部分、二つの残簡(明27・秋~同28・1)、「しのぶぐさ」(明28・1~2)が詞書の和歌の形式で書かれ、序文だけが書かれた「詞がきの歌」もある。

続いて、「随感録」「さをのしづく」(明28・2~4)がある。「しのぶぐさ」は詞書に日付が多く出て来るので、日件録に近い印象を与える。

雑記系統は、日清戦争時に書かれた「かきあつめ」(明27、28頃)と「うたかた」(明27・末~同28・冬)が存在するだけ。

記録は29年7月22日で終り、その後「はな紅葉一の巻」の余白を使用して病床でわずかな手記が書かれ、それが最後の日記になっている。


「かつて天啓顕真術会本部長と聞えし久佐賀のもとに物語しける頃、その善と悪とはしばらく問はず、此世に大(おほい)なる目あてありて、身を打すてつゝ一事に尽すそのたぐひかとも聞けるに、さてあまたゝびものいふほどに、さても浅はかな小さきのぞみを持ちて、唯めの前の分厘にのみまよふ成けり。かゝるともがらと大事を談(はな)したらんは、おきな子にむかひて天を論ずるが如く、労して遂に益なかるべし。おもへは我れも、敵(かたき)をしらざるのはなはだしさよと、我れをさへあざけらる。」

(以前に天啓顕真術会本部長の久佐賀という人を訪ねて話したことがあったが、その善悪はしばらくおくとして、この世に大きな目的をもって身を捨ててその事に邁進するような人かと思っていたが、何度も逢って話しているうちに、全くあきれはてたつまらない小さな望しか持たず、ただ目の前の僅かな事にばかり迷っている人でした。このような人物を相手に人生の大事を語るのは、幼な児を相手に天を論ずるようなもので、全く苦労ばかり多くて何の益もないことでした。今にして思えば、私も相手を見分ける眼が全くなかったことよと、自分で自分が可笑しくなるのでした。)

6月5日

戦時大本営条例により大本営を動員。宣戦布告前だが、戦時に入る。広島第5師団に兵員7~8千の混成旅団編成着手させる。

この日に初めて陸軍参謀本部内に設置され、9月15日には広島城内(本丸上段)に移る。天皇は、翌明治28年4月27日に京都に移るまでの約7ヶ月間、広島に滞在。

戦時大本営条例:

(第1条)大本営を天皇親裁のもとにある最高統帥部と規定、

(第2条)そこにおいて「帷幄ノ機密ニ参与シ、帝国陸海軍ノ大作戦ヲ計画スル」任務は参謀総長に与えられ、

(第3粂)大本営幕僚は陸海軍将校だけで組織され、文官の容喙を許さず。大本営組織後は、天皇の戦時軍令大権は参謀総長の補弼だけで発動され、統帥事項は一切、他のいかなる国家機関の制限も受けず、その機務には首相も参加できない。従って、平時には居留民保護の為の軍艦派遣・応急出兵は外交的・政略的事項として閣議決定されるが、一旦大本営が設置されると、「帝国大作戦」の一部として、大本営幕僚長(参謀総長)の専決事項となる。

大本営設置期間は、作戦用兵に関する限り、外交が戦争に従属し、統帥は国務に優越する。大本営設置は平時の法状を変更するので、1937(昭和12)年大本営令を軍令によって公布し、設置要件に事変を加えるまでは、戦時に限定されている。

日露戦争の場合は、それを極めて厳密に解釈し、開戦は1904(明37)年2月4日の御前会議で決定、6日動員裁可されるが、寺内正毅陸相は「宣戦布告以前は、絶対に大本営の成立を認むべきに非ず」と主張。その為、宣戦布告の翌2日にようやく動員下命、13日に完結。

日清戦争の場合、開戦決定の御前会議は7月17日、宣戦布告は8月1日だが、大本営設置はこの日6月5日。開戦の国家意志決意の以前に、統帥部が戦時機関である大本営を置き、平時の法状を戦時のものに変更した事は、閣議決定(居留民・公使館保護及び日清両国の権力平均という限定された出兵目的)を、その精神において無視したもので、二重外交に発展しうる論理を内包している。2日夜の川上操六参謀本部次長と陸奥外相の謀議が、開戦にもちこむ事を決定した際の論理は、日本軍が出兵すれば清国軍が戦を挑み、開戦の端緒が開けるということ。この思惑が外れ、朝鮮に帰任した大鳥公使が、閣議決定による出兵目標達成をみて増遣中止を電請した時、陸奥外相がこの申出を一面では「至当」と看做しながら、「既定の兵数を変更する能はざる」ことを理由に拒否したのは、軍事的観点が政治的観点に優越したことを意味し、政戦両略一致の点からみれば、極めて不合理。大本営設置の上での大軍派出の事実が、日清両国の同時撤兵を不可能とし、妥協成立の道を閉ざし、日清戦争回避の最大の機会を失わせる。日清戦争の真の起点は、列強の干渉や国内政治の影響により開戦政策が動揺することを阻止する目的で、統帥部が陸奥外相との私議のみにより独走的に大本営を設置した時点に、求められる。

戦争は、①清国との国際法上の戦争、②朝鮮・台湾に対する「戦争ならざる戦争」、③清帝国分割を巡る列強との「戦争にいたらない戦争」、の三局面の重層的・同時進行的戦争として遂行。

国内では、帝国憲法の多元的分立主義が新たな矛盾である統帥と国務の対立を生みながら進行。統帥は、大本営設置と海外派兵によって機構的にも国務に対する統帥の優越を獲得し、政略を戦略に従属させようとする。政略を担当する国務が戦略を拘束し、統帥を従属させる限り(政略の主導のもとに政戦両略が一致している限り)、戦争目的を達成することができる。日清戦争の歴史は、機構的に国務を抑える権限を握ってたえず戦略至上主義にたって独走しょうとする統帥を、国務が統御しょうとする歴史である。

明治憲法下では、国務・統帥分裂を統合できるのは天皇のみで、最高国策はしばしば天皇臨御の宮中での御前会議で決定される。御前会議は憲法上の会議でなく、法理的にはその決定が国法上有効ではないが、天皇の最高責任で決定した形式を含む為に、会議の決定は国務・統帥双方を強く拘束。日清戦争に際し、このような意味の御前会議は7回開催。会議参列者は固定ではなく、会議毎に相違、閣僚全員参列は初めの3回のみ、定例的出席は首相・陸相・海相・参謀総長・参本次長・軍令部長・山県有朋の7名。陸奥外相は初め3回のほか講和条件審議の御前会議に参列。

これとは別に、天皇が大元帥の資格で出席し、作戦を親裁する大本営御前会議があり、日清戦争の場合は約90回開催。会議出席者は、参謀総長・参本次長・軍令部長・陸相・海相を中心とする大本営幕僚であり、山県大将が特命で参加。伊藤首相列席が命じられた後は、双方の御前会議出席者は主要部分で一致。天皇を含めたこの8名(陸奥外相を加えると9名)が戦争指導寡頭制を構成。日露戦争の場合のように財政担当が加わわらず、また武官此率が高いことが注目される。

6月5日

伊東巳代治、伊藤首相に新聞同盟(反政府・反自由党)処分を請求。但し、新聞同盟は政社と認定されていず政社法では取締れず。4日、新聞同盟は東京ホテルで今後の方針を協議。「対外自主派総選挙本部規約」作成し、対外硬派の前代議士・貴族院議員に送付。政社の色彩でる。6日、神田錦町の錦輝館で懇親会。


つづく


2024年4月20日土曜日

新緑に包まれた妙本寺 八重桜もまだ一部見頃 ツツジも咲き始めた 大巧寺(ツリガネズイセン、スパラキシス、ヒメウツギ、アリウム・トリケトラム) 2024-04-19

 4月19日(金、昨日)はれ

この日、事故のせいもあってか横須賀線満員。

鎌倉駅ホームも人が溢れ、階段下りたあとの江ノ電側通路は人が動かず、停滞していた。階段を下りるときにたまたま隣り合わせになった若い女性3人連れは、タイ語らしき声で話をしながら、大仏さんのポスターを指さしていた。多分、お目当てはそこかな。

ひと昔に比べたら、為替だけで6~7割引きの日本旅行なんだ。そら、日本、来るわな。

さて、私はと言えば、桜や海棠の花見客の混雑が収まった妙本寺へ。

静かだ。参拝客は、2組の前撮り組を除けば、10人前後くらいで、静けさを取り戻した感じだ。ウグイス啼いてる。

鮮やかな新緑に包まれて、のんびりと。

祖師堂に近い側の八重桜はまだ見頃。

そんなに多くはないがツツジも咲き始めた。








▼次に、大巧寺
まず、ツリガネズイセン

▼スパラキシス(アヤメ科)

▼ヒメウツギ

▼アリウム・トリケトラム


「日本は」のところを「岸田は」と変えて下さい。我々はこれを承知してません。国会でも議論されてません。 → 無邪気な首相演説 「日本は我々と一緒に戦ってくれますよね?」(朝日);「首相のスピーチを聞けば、米議会はその言葉通りに受け止める。『日本は米国と共にある』ということは、我々にとってみれば、最もつらくて過酷な戦争という局面であっても、日本は米国と手を携えて一緒にやるということ」